今日の落書き
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城下延城橋(しろしたえんじょうばし)
別名:潜り橋(もぐりばし)
この橋は城下と対岸の飛地である向川原地区を結ぶことから延城橋と呼ばれています。平成10年には関西テレビ製作の文化庁芸術祭参加ドラマ「うらぼんえ」(浅田次郎原作)の中で、灯篭流しのシーンのロケ地にもなりました。
ここ城下は江戸中期より昭和の初期にかけて、秋葉街道の要衝として、また商人の街として繁栄を誇っていました。城下を起点にこの延城橋を渡って峰続きに大尾山顕光寺(掛川市原田地区)に至る三里(約12km)の山道は蔓畝(つるね)街道と呼ばれ、沿道の村々と城下との交易道路として、また大尾山への参道としてにぎわいました。
明治の後期には向川原地区に水車を動力源とする製材所ができ、業務上の必要から橋の整備が図られました。
昭和の初めには、鉄道レールを用いて橋板を固定する沈下橋方式(通称潜り橋)も試みられましたが、自然の猛威の前に恒久的にはならず、補修を繰り返しながら使われました。
しかし、昭和15年3月に、この製材所が廃業した後は、主要な維持管理者を失い、また掛川市原田地区の道路整備により蔓畝(つるね)街道を利用する人がなくなった結果、延城橋も昭和30年ごろには一時消滅しました。その後、対岸の耕作の便を図るため、洪水時には橋板を取り外せる簡易な橋が町内会管理のもとに設けられ、今は、わずかに郷愁を誘う風物詩として残影をとどめています。 平成12年3月 城下町内会
”告”注意して渡りましょう。橋の事故に付いては一切の責任を負いかねます。城下町内会
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柿の木様
昔ここに大きな木が立っていました。ある年突然襲った台風で柿の木は倒れてしまいました。通行の妨げになるからという事で、近くの人たちが相談して伐採しようとしました。するとなんと不思議な事に次第に立ち上り、元の姿にたち直ってしまいました。人々はその強い霊力に驚き感心し、「柿の木様。」としてここに祭ることにしました。足腰の病にごやくがあるといわれています。
2002年 向笠史談会
高塚太郎平新道
明治初年頃迄この地方には東海道より北に車場の通行できる道がなく人々は不便をしていました。当時37才の高塚太郎平は産業の発展には道路の開発が必要と考えた。
小笠郡原の谷川の西岸より天竜川東岸迄、長さ12km幅2mの道路を全財産を投じ自らもツルハシを振るい5年の歳月をかけ、明治20年に開通しました。明治16年開通した豊田橋と結ばれて、地域はおおいに発展した。
2002年 向笠史談会
※「向笠史談会」で検索したところがあり、ここに「向笠城」「高塚太郎平新道」などの話しが載っていた。
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大崎というところで杖を突いて歩いている年寄りと話しをする。「脳梗塞でこんな風になってしまった。足が悪いわけではないが脳の関係で上手く歩けない。10年前にも一度あって、そのときは手が動かなくなってしまった。回復したのだが2年前にまたやってこうなってしまった。以前はあんたのように歩いていたのだが...。こんな身体でもなるべく歩くようにしている。」毎日1時間ぐらいは歩いているらしい。別れてからすぐに車の中から手を振って私を呼んでいる人がいる。そばに行ったら私の所属している掛川歩こう会の会員の女性だった。
獄門畷
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元が戦死した後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと、気賀の人々は、領主今川氏のために堀川城を造り、最後まで戦った。
堀川城址は、ここから南へ600メートル程にある。
永禄12年(1569)3月27日、堀川城に2000人の男女が立てこもり、3000人の家康軍に攻められて、落城したといわれている。
大久保彦左衛門の記録に「男女共になで切りにした。」とある。
そしてその後に捕らえられた約700人の人々も、同年9月9日にこの付近で首を打たれた。
その首をこの小川に沿った土手にさらしたので「ごくもんなわて」と言われるようになった。
昭和63年3月20日
細江町教育委員会
気賀宿の桝形と燈籠
気賀は天正15年(1587)本多作左衛門によって街道の宿場と定められた。
江戸時代には、山手に土塁、南は堀川、東に関所と葦垣、西に石垣と矢来の桝形があり、その中に本陣、問屋場、旅籠をはじめ民家約100軒が町並を作っていた。
この桝形は気賀宿の西入口にあたり、一対のL字形の石垣の上に土を盛り矢来を組み、門が設けられていた。外敵の勢いを鈍らせるため、道を折り曲げたものだが、道路拡張のため向い側の石垣は取り去られた。石組の中に瓢箪の型をした石がはまっている。
燈籠は、当地の安全を、秋葉山に祈願した常夜燈で、地元の若者たちが願主となり、安政4年(1857)に40両の大金を集めて建てたものである。
昭和63年3月20日
細江町教育委員会
馬頭観音の由来
上町地域内にある文化財で石塔に彫られている「??曙栗」(ようじょしょりつ)の文字と、その上に馬頭観音像が彫られ、領主近藤家の馬頭観音ではと言われています。
この馬頭観音は気賀近藤八代用恒公の寛政12年(1800)に建てられ、高さ約45糎、幅20糎の石塔で平成9年度に本陣前公園が新設されるのを機に犬くぐり道からこの公園に祀られることになりました。国道362号線(姫街道)に面して祀られ、住民の崇敬を集めるようになりました。
国道362をもじって弥勒路の馬頭観音として、往来する車と人の交通安全の守護神として御加護ありますようにご参詣をおすすめします。
平成10年3月吉日
ようじょ曙栗=近藤家の名馬の名と言われている
よう(馬偏に要)、じょ(馬冠に衣)は漢字変換出来なかった。
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